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1991年秋、中央公論社から出た文芸春秋秋季号に、ジナイーダ・ニコラーエヴナ・パステルナークによる「パステルナーク回想」(前木祥子氏訳)が掲載された。元々はレニングラード(サンクトペテルブルク)の月刊誌「ネヴァ」に掲載されたものだ。これは、ジナイーダがパステルナークの死後2年ほどして口述筆記されたものだが、1990年2月まで未発表だった。

スタニスラフ・ネイガウスがこの義父から影響を受けているのは、当人も認めているところである。そこで、内容を追っかけてみようと思う。

 

  音楽の背景にあるもの
 

スターシクのパステルナークとの係わり合いは、1920年代末に、父ゲンリヒとパステルナークが友人を介して知り合ったことに始まる。この出会いが、スターシクの両親の離婚、母ジナイーダのパステルナークとの再婚、に結びついてゆく。双方の家族は、夏を過ごすためにキエフ郊外のイルペニに一緒に行くほど親しくなった。パステルナークは、有能な主婦であるジナイーダのかいがいしく働く姿に、強く惹かれたらしい。というのも、彼の妻エフゲーニヤ・ルリエは画家で、ジナイーダとは全く異なる正確だったかららしい。ちなみにジナイーダは、キエフ音楽院で、ゲンリヒからピアノを学んでいたのである。

スタニスラフ・ネイガウスは、この件について水谷邦子氏に「あれはパステルナークが悪いんだよ」と語ったそうであるが、モスクワに帰った後、パステルナークはゲンリヒに対し、自分のジナイーダに対する思いを告白し、ジナイーダもまた、パステルナークへの思いの強さに気づき、彼女は二人のどちらとも距離を置くため、キエフへ逃避行することになる。

ところが、パステルナークはキエフまで彼女を追いかけてきて、二人でグルジア旅行に出かけてしまったのである。パステルナークはジナイーダに対し、子供を引き取って、パステルナークとも子供とも一緒に暮らすように説得し、ゲンリヒと話し合った結果、双方の夫婦がおのおの離婚し、スターシクは兄アジィクとともに、母と義父の下で育つことになった。

しかし、それでもゲンリヒとパステルナークの友情は終生続いたのであった。

だが、1930年代半ばになると、スターリンによる芸術家の大量逮捕の嵐が吹き荒れ、パステルナークの友人達も次々に逮捕され、追い詰められて自殺する人もいた。しかし、パステルナークは、ジナイーダの目から見る限り、ひるんではいなかったようだ。

1938年1月1日、ジナイーダはパステルナークとの間に息子レーニャを出産した。しかし、時を同じくして、長男アジィクに、結核の兆しが現れた。その後、長男の結核は進行し、ジナイーダはアジィクをサナトリウムに入院させることになる。

一方、スターシクは音楽の才能をあらわし、グネーシン音楽学校でヴァレリア・リストワに学ぶようになり、10歳にして音楽学校のオーケストラに入った。

だが、1941年6月、第二次世界大戦が勃発し、パステルナークはスターシクとレーニャを疎開させるように主張した。アジィクを置いて疎開することを渋るジナイーダを説得し、ジナイーダ、スターシク、レーニャの3人は、チストーポリに疎開する。アジィクは、スベルドロフスク郊外にサナトリウムの子供達とともに疎開した。10月にはパステルナークもチストーポリに到着するが、11月にゲンリヒが逮捕されてしまった。周囲の人々に大きな衝撃が走った。

チストーポリでのスターシクは、コルホーズで働き、薪を運び、音楽をすっかりやめていた。ジナイーダはそれをとても悲しんだ。彼らの生活する「子供の家」には、調子の狂ったピアノが置いてあり、スターシクは時々そのピアノを弾いていた。「子供の家」の所長は、夜12時までの練習を許可し、ピアノの勉強に相応しい環境を作ってくれた。それからスターシクは、「子供の家」で演奏するようになり、母とともにベートーヴェンのピアノ協奏曲を連弾で弾いたりした。

1942年春、ジナイーダのもとに、アジィクの命を救うために足を切断する許可を求める手紙がきた。ジナイーダは、許可するしかなかった。彼女はスターシクを連れ、アジィクを見舞いに行く。いざ到着したら、アジィクから、ゲンリヒが釈放されてスベルドロフスクにいる、という嬉しいニュースをもたらされた。その後、パステルナーク家の人々は、1943年6月にモスクワに戻った。ゲンリヒもまた、1944年にモスクワに戻る許可が下りた。この頃のスターシクについて、ジナイーダはこう語る。

「スターシクは音楽で著しく伸びていた。ピアニストとしてのスターシクがますます好きになっていった。彼の演奏は私の心を捉え、私の厳しい要求を満足させた」

スタニスラフ・ネイガウスもまた、「自分の音楽の多くを母に負っている」と語っている。

1945年4月、アジィクが亡くなった。ジナイーダは長男の死の悲しみから逃れるため、戦争遺児援助委員会で働いたり、次男スターシクのコンサートの準備に熱中する。だが、ジナイーダが家を空けることが多くなったことで、パステルナークと愛人のオリガ・イヴィンスカヤの仲が進展することとなる。イヴィンスカヤは、「ドクトル・ジバゴ」のヒロイン、ラーラのモデルと言われている女性で、「パステルナーク・詩人の愛」(新潮社)を著している。

ソ連当局とパステルナークの軋轢は、何も「ドクトル・ジバゴ」でのノーベル文学賞受賞に始まったわけではない。1934年の第1回作家会議で、パステルナークの詩集「第二の誕生」が芸術至上主義である、と批判され、作品の発表が出来なくなったこともある。

逮捕を逃れて生き延びたパステルナークは、「ドクトル・ジバゴ」の推敲に力を入れ、1957年に小説は完成し、ソ連に先んじて、イタリアで出版された。そして、パステルナークは1958年にノーベル文学賞を受賞する。ジナイーダはこの知らせに不安を感じ、やがて彼女の不安は的中する。これを機に、ソ連国内で、パステルナークを非難する大キャンペーンが始まったのだ。

何故これほどの大事件になったか?これは、ネイガウスの息子であるブーニンの文章を読んだ方がわかりやすい。

「小説の中の出来事が、一人の人間の人生というかたちで描かれており、それまでのようにぼんやりと形をぼかした集団的な捉え方をしていないので、すでに知り尽くされている数々の出来事の、プロバガンダにゆがめられていない殺りく的な本質的部分が読者に見えてきたしまうからだ」(「カーテンコールのあとで」より)

結局パステルナークはノーベル賞を辞退した。にもかかわらず、作家同盟は、パステルナークを除名し、国外追放を求めた。彼自身は、「祖国を出ることは、私にとっては死に等しい」と述べている。その後、パステルナークを非難するキャンペーンは下火になった。

1960年4月、パステルナークは不調を訴えた。肺がんだった。ジナイーダは、愛人イヴィンスカヤを呼ぶか尋ねるが、彼はこれを断った。同年5月30日、ジナイーダやスターシクが介護のために付き添うなか、パステルナークは子供達やジナイーダに最後の別れを告げ、逝去した。6月2日の葬儀では、スターシクはショパンの葬送行進曲を演奏した。出棺の際は、パステルナークの息子達(エフゲニー、レーニャ)、スターシク、パステルナークの甥らは、葬儀委員長が反対するにもかかわらず、棺を自分達の手で運ぶと主張し、ジナイーダの決断で、棺は彼らの手で運ばれた。

ジナイーダは、1966年に夫と同じ肺がんで世を去った。ジナイーダが亡くなったときのことを、スタニスラフ・ネイガウスは同門の友人であるヴェラ・ゴルノスタエヴァにこう語ったそうだ。

「テレビでチャイコフスキーコンクールをやっていて、僕はそれを見ていた。第3次予選で、弾いていたのはスボロジャニクだったよ。1楽章が終わったところだった。最後の大きなカデンツのところで、ママは気分が悪くなったんだ。僕はテレビを消して飛んでいった・・・・・あのチャイコフスキーのコンチェルトはまだ聴けそうにないよ。とくにあのカデンツは・・・・・」(ゴルノスタエヴァ著「コンサートのあとの2時間」より)

これらの出来事が、ネイガウスの人柄や音楽に多大な影響を与えていることは間違いないだろう。ネイガウス来日時の通訳の水谷邦子氏は、寡黙を装う、と表現しているが、義父のことで何かと火の粉が飛んでくる立場にいたネイガウスとしては、そうせざるを得なかったのだろうが、心の中では、体制に屈しない信念と、人間としての真・善・美・愛を信じて、前を向いて歩く努力をしていたのであろう、と私は信じている。そうでなければ、ピアノからあのような優しさと気品ある響きは紡ぎ出せない。

クョスコニョ    [1] 
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